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単一民族神話の起源―「日本人」の自画像の系譜
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| ジャンル: | 歴史,日本史,西洋史,世界史
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もてあそばれる「日本人論」をえぐりだす
小熊という方の本格的な著書を読んだのは 本書が初めてである。非常に衝撃を受けた。
日本は単一民族であるという思いは今の日本人には強いと思う。
勿論アイヌの方や そもそも 今や日本に住む外国の方の数は多い。従い 実際には単一民族国家とは言い難く それゆえに 例えば政治家が日本を「単一民族国家だ」と発言して物議を醸すという場面もあった。その発言には問題はある一方 大きなコンセンサスとしては「日本は単一民族の島国である」という認識が時代の風潮としてどこかあると思う。
僕は そんな風潮は昔から不変であると思っていただけに 本書が描き出す戦前ー戦中の日本での「言説」に非常に驚いた。いかに 「非単一民族論」が多かったことか。
要は 時代、状況に応じて かように大きな問題をもてあそんできたのが日本の近代史であったということなのだと思う。逆に言うと その時の言説を見ると 状況が分かるとも言いなおせるのかもしれない。
例えば グローバリゼーションが声高に語られる現代には またもや「日本は混合民族だ」という言説が生まれてきてもおかしくないかもしれない。もちろん 以前のように直栽な言われ方は されないとは思うが 時代の記号をまとった スマートな物言いで そんな話がいつ出てくるかわからないのではないか。そんな風に感じる次第だ。
単一民族論と混合民族論の絡み合い
外国人参政権や移民・難民受け入れに対する消極的姿勢など現代日本の「他者」に向き合う姿勢には問題が多い。そのような日本の現状を批判する者は、しばしば日本人は歴史的に「単一民族神話」の虜となっている、「日本=単一民族」説は間違いであり、そのような神話から脱却すべきであると主張する。だが、日本人は決して昔から一貫して単一民族論者であったわけではない。大日本帝国は多民族を包摂し、それは「日本=混合民族」論によって支えられていたのである。
本書で小熊が描くのは、そうした日本人の自画像における単一民族論と混合民族論の複雑な絡み合いである。戦前において単一民族論は論壇の傍流であった。そこでは帝国の膨張に歩調を合わせるかのように混合民族論が幅を利かせ、領土拡張と同化政策を正当化していたのである。敗戦後、植民地が放棄され国内における異民族が激減するに伴ってそのような論調が一転する。混合民族論が姿を消し、単一民族論が主流となって躍り出るのである。勢力拡張時には混合民族論、縮小時には単一民族論といった具合に日本はその自画像をころころと転換してきたことがよくわかる。
小熊は決して混合民族論が単一民族論よりもベターだと主張しているわけではない。小熊によると、「混合民族論は血統意識から分離した国籍や人権の概念を成立させない点において戦後の単一民族論と機能的に同じである」という。そして今求められているのは単一民族神話に対抗するために混合民族神話を提示することではなく、神話からの脱却であるという。この指摘は鋭い。重要なことは日本人の起源はそもそも・・・を云々することではなく、今を生きる私たちが他者とどう向き合い、共に生きていくのかを構想することにある。自画像の根拠を過去にではなく現在と未来に求めることがこれからの課題であろう。
もうひとつの「神話」からの脱却を
視点としては大変に鋭いし、集められた言説はそのとおりだろうけど、肝心の史実の研究がずさんである。
本筋に絡まない歴史事実の誤認(例えば三一独立運動を「平和的示威行動」としているが、実際には襲撃や打ちこわしが日常茶飯事だった)を置いておいても問題が多々ある。
ひたすらに同化政策の劣悪性を訴えるが、創始改名は20パーセント近くの人が行っていないし、日本語の強制はただの奨励である。
逆に、朝鮮総督府はハングルの普及に努めている。朝鮮教育令では朝鮮語は必修とされ、初の朝鮮語辞典も作られた。単純に朝鮮半島への政策が「同化」のみだとしたら、こうした同化に逆行する政策は取られないはずである。
また、そのような同化政策で民族抹殺が出来るかのように書いているが、そうだとしたら朝鮮民族はとっくになくなっている。
百済からの渡来人は鬼室集斯、憶礼福留、木素貴子、各那晋首といった名前で、現在の韓国人の名前はすべて中国式である。
また、李氏朝鮮ではハングルは卑しい文字とされあまり使用されず、第十代燕山君のときには正真正銘のハングルの禁止が行われた。
小熊氏の説に従うと、日本が朝鮮を統治したときには朝鮮民族なるものはひとりも存在しないということになる。
小熊氏の視点はすばらしいのだが、もうひとつの「戦後神話」も乗り越えて欲しかった。
単一 対 混合の歴史
本当に単純に言えば、この本は「単一民族論」と「混合民族論」の二つを思考のベースにして読み進めればいい。
しかし、何しろ膨大な人物と文献を取り扱い、またその時代の社会的な背景や国際的な背景、
さらには個人的背景や古代日本史をも念頭に置くことを時には必要とするので、
私の頭脳レベルでは混乱しないように頭の中を何とか整理しながら読み進めていくだけで精一杯であった。
だからといって途中で放り出したくなるようなモノでもなく、逆にどんどん引き込まれて、
時には感嘆し時には思慮深い状態にさせられる名著であることは間違いない。
特に結論のさばき方は、論文ゆえにまさに「学問的」であり、その多面的分析方法や論理性の高さゆえ、強い説得力をもって読者に迫る。
舌を巻くとはこのことだ。
小熊氏の他の著作でもそうだが、
「現在の当たり前がいかに過去では当たり前でなかったのか」や「時代の流れの中での言説の取り扱い」の重要性を痛感させられる。
95年の出版を知り「もっと早くこの本に出会っていれば…」なんて気持ちも湧き出した。
ところでこのところ、「日本人=サムライ(又は武士道魂)」という図式がよく見られるような気がする。
私はあまりこの意見に与しないのであるが、心理的同一性を求める「日本人=単一民族」の新たな生まれ変わりと考えられるかもしれない。
最も日本で読まれている修士論文
だと思われます ;) 著者の研究手法については巻頭で述べられている。知識社会学の手法を取っているのだが、膨大な資料を渉猟しそれが書かれた当時における「言説」をあぶり出すという手法は伝統的ながら、これが書かれた当時フィールドワークで収集したわずかなデータを質的に分析する、というタイプの研究がちょっとしたブームになっていた社会学の世界において、体力勝負(もちろん、知的体力という意味も含まれるが・・)という点において少なからぬインパクトを与えた。 もちろん、本書の一番の魅力は、ありそうでなかった、タイトルに関する包括的な実証研究を呈示したことにある。今までも単一、あるいは複数民族国家論に関する単発的研究はいくらでも存在したが、このように戦前から戦後にかけて代表的な言説を収集し、可能な限り(成功しているかどうかは読者の判断次第だろう)政治的偏向を排して中庸な姿勢を貫こうとした(もちろんこのような研究を発想する著者の政治的スタンスが右のわけはないだろう)著者の努力はまさに敬服に値する。 本書においてひとつ指摘しておきたいことは、欠点というほどではないが、道場親信が「占領と平和」で指摘したように、戦後の単一民族神話は、アメリカからある意味押し付けられた外来性の言説であるという側面を取り上げていないことにある。しかし、本書のボリュームからするとそこまで扱うのは無理だったかもしれない。
新曜社
「日本人」の境界―沖縄・アイヌ・台湾・朝鮮 植民地支配から復帰運動まで 〈民主〉と〈愛国〉―戦後日本のナショナリズムと公共性 “癒し”のナショナリズム―草の根保守運動の実証研究 対話の回路―小熊英二対談集 インド日記―牛とコンピュータの国から
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